芙蓉の人(1970年 新田次郎著)

新潮社刊『新田次郎全集第7巻』(1975)より

 

◎概要

現在、富士山頂には観測所があり、年中観測を行っている。ここに初めて観測所が出来たのは今から100年以上も前のこと。しかも、当初は私設の観測所であった。それを設置したのが、野中夫妻である。その野中夫妻の、観測所設置に至る事実を小説化したのが、この『芙蓉の人』である。だが、観測そのものは、初回は途中で失敗し、実際に通年観測が始まったのは、それから37年待たねばならない。

とまあ、一般的な説明をするとこうなるだろうが、実際には、この小説は野中千代子の伝記的な性格が強い。これは、千代子夫人の『芙蓉日記』に作者・新田次郎が強く感銘を受け、彼女を描くことで至氏を描くことにもなると考えたからだと作者自身が述べている。「芙蓉」と言う言葉にはいくつか意味があるが、ここでは、「富士山」の意味ではなく、どうやら「美人」の意味で使われているようだ。実際、千代子夫人はかなりの美人だったらしい。

実際にはこの観測の様子を描いた書籍は多数存在するが、これは、そのうちの一つである。以下に、作者が執筆の際に参考にしたと言う文献を挙げておく。

 

野中 至 『富士案内』『富士山気象観測報文』『富士山頂寒中滞在概況』他

落合 直文 『高嶺の雪』

和田 雄治 『野中至氏の富士山観測所』

 

◎あらすじ

天気予報は、今も時々そうであるように、昔は全然当たらなかった。それは、高層における気象変化を観測できないことによるものだと考えた野中到は、私設の気象観測所を富士山頂に設置することを思いついた。高層観測所設置が国威発揚にもなると考えた中央気象台の和田技師の意見もあり、父・勝良は、当初反対したにもかかわらず、これを認める。千代子も、夫一人では大変だろうと到の手伝いを申し入れ、結局はこれが認められて、彼を懸命に支援する。三国干渉もあって更に情熱を燃やした彼が、翌年の夏に観測所設計についに乗り出し、多くの苦難を乗り越えて、ついにこれが完成する。

千代子は、当初から到について自分も一緒に観測をしようと考えていた。到の両親は猛反対するが、結局彼女の情熱に負けてみとめてしまう。里に帰って足を鍛え、到が山に入ってから後を追うことにした。到や和田技師は反対し、彼女の登山を手助けすることになっていた佐藤與平治に止めるよう言いつけたが、それを無視して入り、到も仕方なく、観測所に残ることを許した。彼女は到を観測やその他の部分で助けるが、冬の富士山の気候は厳しく、観測機が温度計以外使えなくなった他、やがて二人とも病気になる。陣中見舞いに来た勝又恵造、熊吉の二人がこれを知り、到との約束を破って、二人の容体が良くないと公表する。いずれこれは多数の人が知るところとなり、救助隊が結成され、二人救出に乗り出す。結局、観測は失敗に終わる。また、この時、千代子は、娘の園子の死を知る。到は、後にも観測をしようとするが、健康の回復、機器の不足などで先延ばしになり、28年後に再度試みるが、千代子が他界し、この計画も挫折、山頂に観測所が出来るのは、その約10年後、通年の国立観測所が出来るまで待たねばならない。

 

◎感想

細かい描写などを見ていると、実際に富士山頂での観測経験を持った新田次郎ならではの作と言えるだろう。この作の中心は、富士山の冬の厳しさでも観測所での奮闘記でもなく、やはり千代子夫人の生き様であろう。有言実行をここまで成し遂げた行動力、夫の仕事を決死の覚悟で助けようとしたその健気さ、冬期の富士山に立ち向かった勇気など、多くの面で賞賛されるべき要素を持っている。真の強い女性とは、彼女のことを言うのだろう。彼女の偉大さに感動する一作である。どこぞの田島某や福島某とは大違いだ。

 

 

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