八甲田山死の彷徨(1971年 新田次郎著)

新潮社刊『新田次郎全集第7巻』(1974)より

 

◎概要

日露戦争開戦の数年前、一つの計画が青森の方で実施された。この頃からロシアとの戦争を予想していた青森軍部では、ロシア軍による砲撃のために青森一体の交通が麻痺することを想定し、弘前、八戸間の交通網を維持するために、冬の八甲田雪中行軍を半ば強制する。担当することになったのは、五隊の神成大尉、三十一隊の福島大尉である。この行軍は福島大尉は苦しみながらも成功させたが、神成大尉は遭難、従軍者の殆どが死亡するという惨澹たるものであった。この事実を小説化したのが、この『八甲田山死の彷徨』である。登場人物の名前を変えてはいるが、全て実話である。なお、短編集に『八甲田山』と言うものがあるが、これは、その遭難時の様子のみを簡潔に描いたものである。

 

◎あらすじ

迫り来るロシアとの戦争を前に、弘前、八戸間の交通網確保を目的に、八甲田雪中行軍が計画された。このほかに道がないからだ。命じられたのは徳島大尉と神田大尉。限りなく無謀に近いとは解っていても、命令では仕方がない、計画実施に向け、準備を始める。徳島大尉の計画は、弘前から八甲田を通って戻るもの。人数を絞り、研究をしながらの11日間の山行を計画する。下士官中心の編成に疑問を持ちながらも、三十一隊の上層部はこれを認め、彼に一任する。後れを取った神田大尉は、先の小峠までの試験行軍をもとに計画を練るが、五隊の上層部の山田少佐は、これを認めながらもみずからの参加も求めた。徳島隊は準備をしっかりし、行軍中の研究結果をもとに寒中訓練、食料凍結回避の策を練っては積極的に導入し、案内人も立ててしうる限りの対策を立てて行軍を続ける。それに対して神田隊は、先を越されたと慌てる山田少佐の命令で十分な準備が出来ぬままに強行することになる。

徳島隊の行軍は決して楽ではなかったが、案内人がしっかりしており、道を失うことなく、ほぼ予定通りに地点に到達する。しかし、増沢では、来る筈の神田隊が到着していない。その頃、神田隊は、途中で神田大尉から山田少佐が指揮権を奪う形となり、行軍中止を求める神田大尉、永野軍医の意見を無視して吹雪の中を強行する。しかし、山田少佐の行動は全て裏目、吹雪の中を彷徨することとなる。徳島隊は行軍中に遭難して死んだ神田隊の隊員の死体と遭遇するが、救出する余裕もなく、行軍を続ける。ほうほうの体ながらも徳島隊は行軍を成功、神田隊は210人中、10数人を残すだけになった。

 

◎感想

冬山は恐い。山は、それだけでいくつかの危険な要素を含んでおり、更に気象条件が悪い冬ともなれば、危険度が増大するのは事実である。冬山遭難のニュースがマスコミを騒がせることもある。そんな冬山遭難を描いた小説の一つがこれであるが、こういう事実だけをとって冬山は危険だから登らない方がいいという人間がいたとしたら、それは大馬鹿者である。もし、この小説を読んでそのような戯言をのたまう人間がいたとしたら、その人間にはまるで読解能力がないというべきだろう。

私は山の遭難の要因を大きく2つに分けて考えている。一つは不運によるもの、もう一つは登山者が起こすべくして起こしたものである。八甲田でのこの遭難は、明らかに後者のものである。その要因は、以下に述べられる。まず、準備不十分であるにもかかわらず、山田少佐が出発命令を出したこと、準備をしてきた神田大尉から、素人としか思えない山田少佐が指揮権を奪ったこと、天候からして無理な中を、一下士官の言葉だけで山田少佐が行軍を強行したこと、遭難寸前のところで、山田少佐が目茶苦茶な指令ばかり出したことである。要するに、一人の頭の悪い上官によって、当然の如くもたらされた悲劇なのである。

不可能を可能にする、勇気、聞こえは良い言葉だが、不可能なものは、どうやったって不可能なものがあり、勇気は、時として無謀や軽率と勘違いされることがある。現代においても、こんな当たり前のことが解っていない人が多い。昨今の一部のこうした登山者と重ねあわせ、何か腹立たしさが残った。

 

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