聖職の碑
(新田次郎著)
◎概要
1913年(大正2年)、木曽駒ケ岳でおきた、山岳遭難事故を小説化した作品。この遭難は、登山者の自主的なものではなく、地元の中箕輪小学校の行事の一つとして行われた山行時に発生した。37名が遭難し、引率した赤羽校長以下10名の犠牲者を出した。この遭難を記した記念碑は現在も木曽駒ヶ岳に残っている。なお、この作品は後に映画化された。
◎あらすじ
中箕輪小学校の校長、赤羽長重は、教育者としていくつかの理念を持っている。白樺派の若い教員が増えている中、それに戸惑いを隠せず、しかし、これといった手を打てないでもいた。そんな中、明治からの鍛練教育を実践したい彼は、過去にも行った駒ケ岳登山を計画する。当初は若い教員を中心に反対もあったが、結局これを実行することになった。準備を万全にし、地元の青年団も連れていき、いよいよ出発の日を迎えた。しかし、彼が気に入っていた教員のひとりである、樋口裕一は、事情により行けなくなった。
当初から天候が気になっていた赤羽であったが、気象台の返答はあいまいなまま。ただ、途中まではまるで問題にならず、このまま無事にいけるかと思ったが、途中から次第に天気が悪化し始め、泊まる予定だった小屋がまるで使えないことに気付き、小屋跡を利用しての露営を強いられた。嵐は夜になると更にひどくなり、しかも寒くなってくる。火も点けられず、厳しい環境の中、赤羽は何とかこの状態を乗り切ろうと試みるが、独りが発狂状態になって、そのまま死亡。こうなるともう彼の手には負えず、結局、嵐の中を下山することになる。自動を死なせてはならないと思った赤羽は、一人でも多く助かるようにと、青年達に児童を二人は連れて下りろと指示、また、何人かには早く下山し、救助を求めるように指示した。登山隊はこうして嵐の中を彷徨する。教員のひとりが無事下山でき、救助隊を呼べたおかげで、多くの児童を救助することに成功、赤羽も、取り残された児童を引率し、無事に下山しようと力を尽くすが、救助隊に救助されながらも、最後は力尽きた。こうして、児童、校長を含む10人が死亡、前代未聞の遭難事故となった。この知らせを聞いた樋口は、自分が行かなかったことが事故を大きくしたと責任を感じ、心中する。
この行為に対し、赤羽に対する非難もないではなかった。しかし、自身を犠牲にしてまで職務を全うした赤羽の姿勢に感動した教員のひとりは、今回の登山に強硬に反対した身でありながら、このことで登山が衰退することを懸念、この事実を伝える碑を作ることを提案、実行に移した。
◎感想
結果論でしかないが、この時は、気象台も予測できなかった強い低気圧の発生によって、予想もつかない悪天候に見舞われた事が招いた不運な遭難であると言うことが出来る。赤羽校長は随分とたたかれたようであるが、あの状況下で彼がとった行動は、さすが登山なれしているのだろう、考えうる最善策であったとは思う。結局登山隊は彼の手で終えなくなってしまったが、そうなっても最後まで一人でも多く助けようとし、そして殉職した彼の姿勢はむしろ賞賛に値するであろうし、彼のこの姿勢が、あるいは全滅してもおかしくない状況下で、遭難者を何とか10名に食い止めたのだと私は考える。やはり、きちんとした指導者に巡り合いたいものだと感じる一冊であった。