登山家達 ―その生涯―

取り敢えず主だった人を50音順にならべて、簡単に紹介してみました。インデックスとしてご利用ください。

 

茨木 猪之吉(1888〜1944)

画家。日本山岳画協会の創立会員でもある。浅井忠、中村不折について洋画を学び、第一回文展で入選。各地を放浪しながら山岳の絵を残す。穂高を登山中、白出沢で行方不明になる。

 

大島 亮吉(1899〜1928)

大正期後半を代表する登山家。登山思想に強く関心を持ち、その過程で彼が得た結論とは、「闘争的精神と静観的態度の融合」と言えようか。慶應義塾山岳会に入会し、槇有恒に「岩と雪」の登山へと導かれる。1924年に積雪期の槍ヶ岳、奥穂高、北穂高の初縦走を成し遂げるが、4年後に穂高岳北尾根で墜落死。わずか28歳の生涯であった。

 

加藤 文太郎(1905〜1936)

兵庫県浜坂町生まれの設計技師という社会人登山家。「単独行こそもっとも闘争的で、征服後の慰安がもっとも大きい」、「飛躍の伴わない単独行こそ危険が少ない」が持論で、山行の殆どは単独行であった。徹夜の国道歩き、冬の庭での睡眠などのユニークなトレーニング、越飛、越信国境稜線を10日で突破などの型破りな厳冬期単独行で知られていたが、槍ヶ岳北鎌尾根で遭難。

 

上條 嘉門次(1847〜1918)

近代登山においては優秀な案内人が多く登場してくる。その代表例として真っ先にあがるのが、「上高地の主」こと上條嘉門次である。W・ウェストンが穂高を登頂した際に同伴し、その著書『日本アルプス・登山と探検』で紹介されたことで有名となった。彼が明神池畔建てた小屋は、現在も「嘉門次小屋」として利用されている。

 

小暮 理太郎(1873〜1944)

近代登山、中でも「探検の時代」といわれた頃に活躍した登山家。深田久弥著「日本百名山」でも、山名の由来を研究した岳人としてその名を多く見かける。御岳講の両親の影響を受けて山岳に興味を持つ。田部重治と共に、特に奥秩父へ登っている。中でも金峰山をこよなく愛し、金山平にはレリーフも残されている。1935年から9年間、日本山岳会長を務める。後には自然破壊にも関心を持ち、大気汚染に警鐘を鳴らしたこともある。

 

小島 烏水(1873〜1948)

横浜賞金銀行勤務の傍ら、雑誌「文庫」の記者も務めた文筆家。岡野金次郎と知り合い、明治32年に乗鞍岳、35年に槍ヶ岳の登頂に成功する。その後も日本アルプスの主脈を精力的に登り、その記録を『日本アルプス』全四巻にまとめた。銀行のロサンゼルス支店長時代に海外の山にも登り、帰国3年後に銀行を退職、その2年後にウェストンらと日本山岳会を結成、初代会長となる。山岳家としてだけでなく、浮世絵の研究家としても有名。

 

田部 重治(1884〜1992)

小暮理太郎と共に、「探検の時代」を代表する名登山家。富山の、立山登拝を通過儀礼とする村で生まれながら、病弱なため、登山経験は皆無だった。後に小暮理太郎と知り合い、この頃から登山を本格的に始める。奥秩父に森林美を見出し、「日本アルプスと秩父巡礼」においてその多くが紹介されている。しかし、後にピークハントに重きを置きすぎた登山を改め、自己と自然の融合を目指す登山を志向するようになる。1936年に法政大学教授となり、同大山岳部長も務める。

 

新田 次郎(1912〜1980)

作家。自身の富士山測候所での経験を元に書いた「強力伝」で直木賞を受賞、これが作家としてデビューするきっかけであった。他にも「孤高の人」、「槍ヶ岳開山」、「八甲田死の彷徨」、「聖職の碑」など、山岳において命と引き換えに職務を全うする男の生き様をテーマとした小説を発表し、山岳小説家としての地位を確立する。特に自身が働いた富士山に関しては、「富士山に死す」、「芙蓉の人」など、名著を多く残している。

 

深田 久弥(1903〜1971)

「日本百名山」の著者として、岳人で知らぬものはおるまい。「新思想」「作品」の同人となり、『翌檜』を1933年に発表するなど、文学面でも業績を残すものの、「文学をやるにはあまりにも体が頑健すぎた」彼は、次第に登山に傾倒し、山行記を中心にかき出す。「岳人」にヒマラヤに関する連載を掲載し、「山と高原」に掲載された連載は、後の『日本百名山』となった。登るだけでなく、研究も熱心で、その成果は自宅に建てた“九山山房”に残された。1971年に茅ヶ岳で急逝。『世界百名山』は41座で絶筆となった。

 

穂苅 三寿雄(1891〜1966)

山岳写真家、山小屋経営者、播隆研究家の3つの側面を持つ山岳家。槍ヶ岳に情熱を燃やし、その登頂のために肩の小屋を建設、開山者である播隆の研究にも力を注いだ。冬期における北アルプスでの写真撮影時の機器の工夫は現在でも役立つものであり、播隆の研究を記した本は、新田次郎をして、「この本がなければ『槍ヶ岳開山』は書けなかった」と言わしめるもので、また、肩の小屋は現在も多くの登山者を集めるなど、彼の功績は年月を経た現在でも非常に高いものである。

 

有恒(1894〜1989)

慶應義塾山岳部の創立者。アルプスのアイガー東山稜初登攀達成(1919)のほか、カナダのアルバータ(1925)、日本人初の8000m峰となるマナスル(1956)、積雪期の槍ヶ岳初登頂(1922)など、輝かしい登山記録を残し、日本登山界に新しい時代を拓いた。日本山岳会の会長も二度務めたほか、山行記も数多く残した。